WHITE NOTE PAD / ヤマシタトモコ
2巻目、最終巻です
やっぱり…というか
分かりやすいハッピーエンドな結末は用意されてませんでしたね
ここでの感想を書くために作品を読み返しているのだけど、読めば読むほど深い話だな…と思います
あらすじ(※ネタばれあり)
城田と喫茶店で待ち合わせをする葉菜(元正吾)
順調に交際を重ねる2人は、その日も他愛のない会話を楽しんでいた
しかし城田の話に受け答えをしながらも、葉菜(元正吾)は彼に対する自分の中の感情が一致しないことを感じる
(ばらばら ばらばらだ)と自我が曖昧になっているような様子
一方で正吾(元葉菜)のほうは、自宅アパートで1人で自炊をしているところへ、岡島と成瀬の2人が客先から貰ったというお寿司を差し入れしに持ってくる
2人の訪問に「…なんか ひとりじゃないのってうれしい」と言う正吾(元葉菜)
それに対して「そうだよ~ひとりじゃないよ~!」と答える岡島たち
「おれは さみしい ひとりでは いられない」
そう言った葉菜(元正吾)とは対照的に、「ひとりじゃないもんね」と今の生活に純粋に満足している様子だ
後日、正吾(元葉菜)は編集部で鬼塚に誘われて、鬼塚、城田、関口の4人で昼食を共にする
道中や店で皆との会話を楽しみながら、正吾(元葉菜)は考える
「たとえば わたしが わたしなら この人たちにときめいたかも
でも違う 恋をしたかったわたしはもういない」
関口に「記憶喪失ってどんな感じなんスか?」と聞かれた正吾(元葉菜)はこう答える
「…そこに何かあったことはわかるけど …何があったかはわからない」
感想(※ネタばれあり)
1巻では、その日暮らしな生活をする正吾(元葉菜)と順風満帆に新しい人生をスタートさせてる葉菜(元正吾)が対照的に描かれていたけど、2巻での彼らの状況や心理状態を見ると、2人の立場が逆転しているような感じだ
あれほど見下した態度をとっていた正吾(元葉菜)に対して、「おれは ひとりでは いられない」と吐露するなど、弱気な態度も見せている
他人へ向ける悪口は自分の中のコンプレックスの裏返しとも言うけれど、やっぱり葉菜(元正吾)は元の自分の人生がカラッポだと感じるところがあったのだろう
…私自身は、正吾とは性別も生きて来た人生も全く違う
しかし同じ30代未婚・下流労働者という立場から、何となく分かるのだ、彼の気持ちが笑
いくら仕事に遣り甲斐を持っていても、趣味が充実していても、「なんか違う」「こんなはずじゃなかった」という、人生に対する空虚感や後悔の感情が
誰だってみんな、好きで今の自分の身体を選んで生まれてきたわけじゃない
けれどその体で生きるしかないから、現実と自分をすり合わせ、折り合いを付け、時には「なんか違う」「こんなはずじゃなかった」とか思いながら、限られた選択肢の中から人生を選び取って生きている、正吾のように
でももしも、自分の理想通りの身体を手に入れられたなら、何ひとつ失敗せずに完璧な人生を歩めるのかというと、やっぱりそれも無理なんだろう
「わたし」が「わたし」である限り、自我が同じである以上、やはりどこかで同じ轍を踏むのだろう
何となく薄っすら気付いていたことだけど、この作品を読んで、正吾を見ていて、やはりそうなんだろうとな悟ってしまった笑
けれどそんな葉菜と正吾の自我は次第に曖昧になっていく
それは混ざり合っているせいかもしれないし、体に引っ張られてるせいかもしれない、それとも周囲の人々の影響を受けているせいなのかも
違う体に入れ替わっても同じような失敗を繰り返してしまうほどの強力な自我でさえ、次第に変容していってしまうのだ
編集部の沖平が正吾(元葉菜)に出会った頃のことを回想してこう言う
「いつでも新しくなれるんだって 感動した」「って言っちゃうと安いね」と
そう、人生は良くも悪くもいつだって新しくなっていく
毎日誰かと混ざり合って影響し合って少し変わって、そしてその少し変わった自分がまた誰かと混ざり合って…わたしたちは誰なのか?
今混ざり合った自分も、次の日にはもう過去の自分だ
「わたし」は常に刷新されていくし、今日幸せだ不幸だと感じることが、明日の自分にとってもそうだとは限らない
未来とは、「まだ何も書いていない まっ白のノート」なのだ